プロフィール

こんにちは、油絵画家の小濱健(こはまたけし)です。

私の生い立ち

私は、1979年10月9日、祖父、祖母、祖母、父、母、3人兄弟の8人家族の次男として秋田県で生まれ育ちました。

実家は自営業で、主に祖父・祖母に面倒見てもらいながら育ちました。

一人が楽しかった子どものころ

私は、子供の頃から絵を描くことが好きでした。

保育園のころは、よくおねしょをしていましたね(笑)
パンツをはきかえているときに先生と目が合った記憶があります。

理由は知りませんが、その頃から保育園に行きたくなかった覚えがあります。

この頃から集団で生活するのが苦手だったんでしょうね。

小学生のころは人に気を使いすぎて、あまり人としゃべったり遊んだりすることができず、休み時間には一人で迷路を描いたり絵を描いたりしていました。

また、そのころ「ゲームボーイ」というゲーム機のソフト「テトリス」が流行っていました。
私はゲームボーイもテトリスも持っていなかったのですが、テトリスがやりたすぎて、手書きで様々な形のブロックを描き、アナログのテトリスを楽しんでいました。

下校も、もちろん一人で、石けりをして帰ることが多かったです。

たまに友だちと一緒に行動しても「どうせ自分といてもつまらないだろうな」と常に思っていたので(笑)

勉強は、体育や図工くらいしか良い成績がなかったです。

それくらい、興味の範囲が少なかったのかもしれません。

一方、兄はオール5をとるような優秀な成績で、しかも友達が多く周りからも愛されていました。
私が兄の友達と遊ぶくらいでしたから(笑)

私は「一重まぶた」や「顔が細長い」こと、歩くとき内またなのがコンプレックスでした。

顔が細長いので「ダイコン」とか、「内またタケちゃん」とか言われていた記憶があります。

図工は絵を描くことが好きで、スポーツは小学生の頃はサッカークラブに入っていました。

本当は野球をやりたかったのですが、野球クラブがなかったので、しかたなくサッカーをやっていた感じです。

中学生になったら野球部に入りたいと思っていたので、体力づくりのため泣く泣くサッカーをはじめました。当然、ポジションがわからず毎回先生に聞いていました。

人付き合いが苦手で一人が多いも、まあまあ楽しい学生時代

その後、中学生では念願の野球部に入部しました。

小学生のころから野球をやっていた人たちと一緒に野球をやることになりましたが、野球が好きだと思っていたので特に気になりませんでした。

しかし、練習と試合の感覚(緊張感)のちがいを経験しました。

また、小さい頃からやっている人たちとの差は確実にありました。その証拠に最後の大会では、レギュラーではなかったですからね。

結果的に私たちの野球部は全国大会まで出場することができました。

このときも、好きな科目は体育と美術(図工)でした。

そのころ、私が描いた中学校の「校舎の絵」が校内に飾られました。

そして、中学3年生では人生初の受験を味わうことになります。

勉強は苦手でしたが、やはり野球が好きだったので、高校進学後も野球をやるために受験勉強をがんばりました。

そして、高校では3年の頃にキャプテンを務めることになりました。

残念ながら高校最後の地方大会は2回戦で負けてしまいましたが、一番の青春を味わうことができました。

このころは、美術の時間に十字架に貼り付けられているキリストの絵を水彩画で描きました。

高校のころに描いた水彩画

また、文化祭では体育祭でベニヤ板の間物6枚程を組み合わせて担任や動物の絵を描いてグラウンドに飾ったり、Tシャツに担任の顔の絵を描いてクラスのみんなに配ったりしました。

その後大学へ進学し、初めて上京して、一人暮らしを始めました。

大学生の頃に就職活動をしましたが、うまくいかず専門学校にも通いました。

製図の学校に通い、学校帰りにアルバイトをする日々を過ごしました。

中学生のころから趣味で描いていた絵は、暇があれば描いていました。

学生のころに描いた絵

専門学校時代、友だちが買ってくれたアクリル画

まあ、学生の頃はまあまあ順調だったと思います。

失敗の連続で人生どん底に

初めて内定した会社は、店舗施工管理の会社でした。

車を運転して現場と会社、材料屋さんに行ったり来たりしていました。お遣いには時間がシビアで、少しでも遅れたりした場合は注意されました。

仕事はとくにやり方を教わるわけでもなく現場の責任者になりアルバイトの人たちに支持したり、材料の手配、現場の仕上がりのチェックなど現場の管理を任されます。

昼・夜関係なく現場の管理を任されました。

20歳のころに免許証を取りましたが、がっつりと運転をしたことがなかったので、この頃の運転で慣れたのかもしれません。

あるとき、事務所で先輩が上司に叩かれたり蹴られたりするのを目の当たりにしました。

初めて入社した会社で上司が部下を叩いたり蹴ったりする。

小学生のころに先生に棒で叩かれた経験があった私は、そんな程度だと思っていました。

しかし、女性社員が叩かれていたときもあり、結局その女性社員は会社のトイレにこもってしまい、最終的には会社を辞めてしまいました。

一方私といえば、入社して間もないため当然成果も出せず、睡眠時間もまとまって取れないため、日中でも眠いまま次第に判断力を失ってしまっていました。

次第に私も怒られることが多くなり、ろくに眠れないことで働く意欲を失っていました。

ある日、実家の母親に泣きながら「辞めたい」と電話したこともあります。

母親は「帰ってきなさい」と言ってくれました。

そんな中、悲劇は起きました。

ある日の夜中、現場であまりにも眠かったので現場の外で寝てしまいました。先輩からの電話も出れずに寝ていました。

その後、先輩に叱られ、私はその先輩に謝り仕事に戻りました。

会社に行かなければいけなかったので、夜中に先輩を乗せて車で会社に戻り、道具を積み込み再び現場に戻りました。

あと、少しで現場というときに気づいたら大きな音とともに衝撃を受けていました。

なんと私が運転した車が、信号待ちの前の車に追突してしまいました。

私は居眠り運転で加害者となってしまいました。

幸い前の車に乗っていた方に怪我はありませんでした。

その後、警察署でいくつかの質問に答えました。

眠いため、意識も朦朧としていました。

「もう自分の人生終わりだ」

と思い、反省しつつも投げやりになってしまっていました。

その夜、全てを知った上司が、誰もにいない現場で何度も私を殴りました。

私は何も抵抗せず、ただ殴られました。

最後に上司の平手が私の耳を直撃しました。

その瞬間、「キーン」と耳鳴りがして片耳が聞こえなくなりました。

鼓膜が破れたのです。

「もう終わった」

と改めて思いました。

私は、その夜会社を辞めました。

会社を辞めた後、いとこが結婚式をするということで親戚が東京に集まりました。そのとき私は父親に「会社辞めた」と一言言いました。

その後は、働くことが怖くなってしまいました。

ちなみにこのときは、絵のことを考えている余裕はなかったです。

画家と油絵との出会いで絵に対する考えが変わった

働くことが怖くなったとしても、とにかく働かないといけないと思い、アルバイトをはじめました。

結果的に3年ほどアルバイトをしました。

このころは精神的にも安定してきて、アルバイトをしながら趣味で絵を描いていました。

フリーター時代に描いたアクリル画。F30号のサイズは初めの大きな絵でした。

あるカフェアンドバーに展示したこともあります。

しかし、展示だけで販売は行っていませんでした。

販売という概念がなかったからです。
当時は額装することも知らずに、額なしで個展を開いていました。

販売目的ではなかったので当然売れない…

仕事は、アルバイトを経てその会社の社員になり2年ほど働きました。

一方、絵の方は何度か公募展に出展しました。

F100号やF50号の、私にとって大作と言われるほどの絵を描きましたが、落選ばかりでした。

「タンスの肥やし」となりました。

やはり描き慣れていないスケールのキャンバスでしたからね。

少し描いただけではうまくはなりません。

「絵は公募展で生計を立てるもの」だと思っていたので、入賞できない自分は「絵は趣味」という認識が拭えませんでした。

落選した絵 F100号、アクリル画

落選した絵 F50号 アクリル画

落選した絵 F50号

その後は全くちがう職種ですが、土木関係の会社に入社しCADや現場監督として10年以上働いています。

以前に比べて、昼夜逆転する仕事ではないので睡眠が確保できて日中のパフォーマンスが保てています。

しかし、そんな中でも仕事でつらいことがありました。

炎天下の中、初めての大きな仕事で私は毎日疲れていました。

スマホを見れば一日の歩数が2万歩以上。

それが毎日続きました。

先方の下請け会社は、見積もりの時点では「できます」ということを言っていたのですが、いざ蓋を開けてみたら、工事に関しては素人のようでした。

そんな中、会社の引っ越しがありました。

道具や材料の運搬で今までの会社と新しい会社を行き来したり、朝早く準備したいのに引越し先の入り口の鍵が開かず、会社に入れずにいました。

一方、工事は一日一日と工期がなくなっていくなか、私はイライラしていました。

工事の「工期」とは、工事と書類での工期です。工事のあとは私ほぼ一人で書類を作成しなくてはいけません。そのことが常に頭にあったので不安で不安でソワソワしていました。

結局、下請け会社では工事が完了しないと思った私は、会社の先輩にお願いして手伝ってもらい何とか検査に合格し、完了させることができました。

ここで私は「他人に振り回される人生は嫌だ」

そう思いました。

「自分でコントロールできることをやろう」

と、心に決めました。

私は、さまざまな本やネットで調べて、ブログを書くことを決めました。

このころSNSもはじめて、今まで描いていなかった絵も再開させました。

当然、調べものをすると他の人が書いたブログが目に付きます。

そんな中、絵を描いて展覧会をしているプロの画家のブログを見つけました。

絵の売り方や、額装の仕方、絵の歴史などが投稿されていて、今まで自分が考えつかなかったことを知ることができました。

その方は、全国各地で数多くの絵を販売していて実績を残されている方でした。

ある日ブログを見ると、私が住んでいる自宅から比較的近い場所で展覧会をされていることを知りました。

「これは行かなければ」と思い、展覧会に伺いました。

会場では、その画家の方はちょうど休憩中だったようで、展覧会の会場のスタッフが呼んできてくださいました。

展覧会自体は一度見に行ったことがありましたが、やはり敷居が高そうでなかなか入れない緊張感がありました。しかし、思い切ってスタッフの方に話しかけてみました。

そうすると、その画家の方が、休憩中にも関わらず私に会いに来てくださいました。

ポストカードを下さったり、私の絵のSNSを見て下さったりしてくれました。

とにかく私は終始緊張しっぱなしでした。

最後に絵の前で写真を撮ってくださいました。

 

ブログは「架空の人物が書いているもの」という認識が半分あったので、私には「本当にブログの筆者がいた!」と感動してしまいした。

油絵との出会い・額装できた!・そして…

その後、その画家の方からさまざまなことを教わりました。

油絵に関する注意することや絵の描き方などを知ることができました。

画家との出会い、油絵の出会いと、絵の知識を知ることで、結果的に油絵を自分で額装まですることができました。

今まで「油絵を額装する」という考えがなく、描いたらそのまま飾るくらいでした。

その他、油絵で気をつけるべきことを実践してきました。

また、良いことはこれだけでは終わりません。

私の妻が絵を描いていることを宣伝してくれて、いつも来てくださる保険会社の方の上司の方からご依頼があり、私が3枚の油絵を描くことになりました。

初めてのことで緊張しましたが、持っているスキルで精一杯油絵を描き、額装してお渡ししました。

それが下の3枚の油絵です。

2019年のクリスマスの夜、その保険会社の方の、上司の方が直々に自宅に来てくださいました。

わずかな時間しかお会いできませんでしたが、とても良いクリスマスを送ることができました。

そして、妹夫婦にも結婚のお祝いとして油絵を送ることができました。

絵は額装すると今までの見た目と比較できないほど仕上がります。

その後も油絵を描き続けSNSでは、「重厚感がある」、「素敵な絵」、「羨ましい」などのお声もいただいています。

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絵で「できない」をなくしたい

私は、絵で「できない」をなくしたいと思っています。

「油絵は扱いが難しい」

「色使いが難しい」

「絵は売れない」

とくに油絵を描くうえでは、さまざまな悩みがあると思います。

でも、実際日本にいながら絵を売って生活している方もいらっしゃるようですし、油絵を独学からはじめて色使いがうまい方も存在します。

独学からでも、今までの「できない」が少しずつでも「できる」になるように…

油絵の描き方に迷うことなく楽しんで描いていくことができる人を増やしていきたい

「絵は売れない」世の中を「絵は売れる」世の中に変えたい

絵に関する仕事で会社努めをすることなく自分で生活できる人たちを作りたい

そして、自分たちで生活できる仲間を増やして、楽しく過ごしていきたいと思っています。

少しでも油絵に親しみを持ってもらえるように、楽しく油絵が描ける環境を広めていきたいと考えています。